P--697 P--698 P--699 #1唯信鈔文意    唯信鈔文意 【1】 「唯信抄」といふは、「唯」はただこのことひとつといふ、ふたつなら ぶことをきらふことばなり。また「唯」はひとりといふこころなり。「信」は うたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり、虚仮はなれたるここ ろなり。虚はむなしといふ、仮はかりなるといふことなり、虚は実ならぬをい ふ、仮は真ならぬをいふなり。本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを 「唯信」といふ。「鈔」はすぐれたることをぬきいだしあつむることばなり。 このゆゑに「唯信鈔」といふなり。また「唯信」はこれこの他力の信心のほか に余のことならはずとなり、すなはち本弘誓願なるがゆゑなればなり。 【2】 「如来尊号甚分明 十方世界普流行     但有称名皆得往 観音勢至自来迎」(五会法事讃)  「如来尊号甚分明」、このこころは、「如来」と申すは無碍光如来なり。「尊 P--700 号」と申すは南無阿弥陀仏なり。「尊」はたふとくすぐれたりとなり、「号」 は仏に成りたまうてのちの御なを申す、名はいまだ仏に成りたまはぬときの御 なを申すなり。この如来の尊号は、不可称不可説不可思議にましまして、一切 衆生をして無上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のちかひの御ななり。 この仏の御なは、よろづの如来の名号にすぐれたまへり。これすなはち誓願な るがゆゑなり。「甚分明」といふは、「甚」ははなはだといふ、すぐれたりと いふこころなり、「分」はわかつといふ、よろづの衆生ごとにとわかつこころ なり、「明」はあきらかなりといふ、十方一切衆生をことごとくたすけみちび きたまふこと、あきらかにわかちすぐれたまへりとなり。  「十方世界普流行」といふは、「普」はあまねく、ひろく、きはなしといふ。 「流行」は十方微塵世界にあまねくひろまりて、すすめ行ぜしめたまふなり。 しかれば大小の聖人・善悪の凡夫、みなともに自力の智慧をもつては大涅槃に いたることなければ、無碍光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑ に、この仏の智願海にすすめ入れたまふなり。一切諸仏の智慧をあつめたまへ る御かたちなり。光明は智慧なりとしるべしとなり。 P--701  「但有称名皆得往」といふは、「但有」はひとへに御なをとなふる人のみ、 みな往生すとのたまへるなり、かるがゆゑに「称名皆得往」といふなり。  「観音勢至自来迎」といふは、南無阿弥陀仏は智慧の名号なれば、この不可 思議光仏の御なを信受して憶念すれば観音・勢至はかならずかげのかたちにそ へるがごとくなり。この無碍光仏は観音とあらはれ勢至としめす。ある経に は、観音を宝応声菩薩となづけて日天子としめす、これは無明の黒闇をはらは しむ、勢至を宝吉祥菩薩となづけて月天子とあらはる、生死の長夜を照らして 智慧をひらかしめんとなり。「自来迎」といふは、「自」はみづからといふな り、弥陀無数の化仏・無数の化観音・化大勢至等の無量無数の聖衆、みづから つねにときをきらはず、ところをへだてず、真実信心をえたるひとにそひたま ひてまもりたまふゆゑに、みづからと申すなり。また「自」はおのづからとい ふ、おのづからといふは自然といふ、自然といふはしからしむといふ、しから しむといふは、行者のはじめてともかくもはからはざるに、過去・今生・未来 の一切の罪を転ず。転ずといふは、善とかへなすをいふなり。もとめざるに一 切の功徳善根を仏のちかひを信ずる人に得しむるがゆゑにしからしむといふ。 P--702 はじめてはからはざれば自然といふなり。誓願真実の信心をえたるひとは、摂 取不捨の御ちかひにをさめとりてまもらせたまふによりて、行人のはからひに あらず、金剛の信心をうるゆゑに憶念自然なるなり。この信心のおこることも 釈迦の慈父・弥陀の悲母の方便によりておこるなり。これ自然の利益なりとし るべしとなり。「来迎」といふは、「来」は浄土へきたらしむといふ、これす なはち若不生者のちかひをあらはす御のりなり。穢土をすてて真実報土にきた らしむとなり、すなはち他力をあらはす御ことなり。また「来」はかへるとい ふ、かへるといふは、願海に入りぬるによりてかならず大涅槃にいたるを法性 のみやこへかへると申すなり。法性のみやこといふは、法身と申す如来のさと りを自然にひらくときを、みやこへかへるといふなり。これを真如実相を証す とも申す、無為法身ともいふ、滅度に至るともいふ、法性の常楽を証すとも申 すなり。このさとりをうれば、すなはち大慈大悲きはまりて生死海にかへり入 りてよろづの有情をたすくるを普賢の徳に帰せしむと申す。この利益におもむ くを「来」といふ、これを法性のみやこへかへると申すなり。「迎」といふは むかへたまふといふ、まつといふこころなり。選択不思議の本願・無上智慧の P--703 尊号をききて、一念も疑ふこころなきを真実信心といふなり、金剛心ともなづ く。この信楽をうるときかならず摂取して捨てたまはざれば、すなはち正定 聚の位に定まるなり。このゆゑに信心やぶれず、かたぶかず、みだれぬこと金 剛のごとくなるがゆゑに、金剛の信心とは申すなり、これを「迎」といふな り。『大経』(下)には、「願生彼国 即得往生 住不退転」とのたまへり。「願 生彼国」は、かのくににうまれんとねがへとなり。「即得往生」は、信心をう ればすなはち往生すといふ、すなはち往生すといふは不退転に住するをいふ、 不退転に住すといふはすなはち正定聚の位に定まるとのたまふ御のりなり、 これを「即得往生」とは申すなり。「即」はすなはちといふ、すなはちといふ はときをへず日をへだてぬをいふなり。おほよそ十方世界にあまねくひろまる ことは、法蔵菩薩の四十八大願のなかに、第十七の願に、「十方無量の諸仏に わがなをほめられん、となへられん」と誓ひたまへる、一乗大智海の誓願成就 したまへるによりてなり。『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにてあきらかな り。証誠護念の御こころは『大経』にもあらはれたり。また称名の本願は選 択の正因たること、この悲願にあらはれたり。この文のこころはおもふほどは P--704 申さず、これにておしはからせたまふべし。この文は、後善導法照禅師と申 す聖人の御釈なり、この和尚をば法道和尚と、慈覚大師はのたまへり。また 『伝』には廬山の弥陀和尚とも申す、浄業和尚とも申す。唐朝の光明寺の善導 和尚の化身なり、このゆゑに後善導と申すなり。 【3】 「彼仏因中立弘誓 聞名念我総迎来     不簡貧窮将富貴 不簡下智与高才     不簡多聞持浄戒 不簡破戒罪根深     但使回心多念仏 能令瓦礫変成金」(五会法事讃)  「彼仏因中立弘誓」、このこころは、「彼」はかのといふ。「仏」は阿弥陀 仏なり。「因中」は法蔵菩薩と申ししときなり。「立弘誓」は、「立」はたつ といふ、なるといふ、「弘」はひろしといふ、ひろまるといふ、「誓」はちか ひといふなり。法蔵比丘、超世無上のちかひをおこして、ひろくひろめたまふ と申すなり。超世は余の仏の御ちかひにすぐれたまへりとなり。超は、こえた りといふは、うへなしと申すなり。如来の弘誓をおこしたまへるやうは、この 『唯信鈔』にくはしくあらはれたり。 P--705  「聞名念我」といふは、「聞」はきくといふ、信心をあらはす御のりなり。 「名」は御なと申すなり、如来のちかひの名号なり。「念我」と申すは、ちか ひの御なを憶念せよとなり、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはせり。憶念 は、信心をえたるひとは疑なきゆゑに本願をつねにおもひいづるこころのた えぬをいふなり。「総迎来」といふは、「総」はふさねてといふ、すべてみな といふこころなり。「迎」はむかふるといふ、まつといふ、他力をあらはすこ ころなり。「来」はかへるといふ、きたらしむといふ、法性のみやこへむかへ 率てきたらしめ、かへらしむといふ。法性のみやこより衆生利益のためにこの 娑婆界にきたるゆゑに、「来」をきたるといふなり。法性のさとりをひらくゆ ゑに、「来」をかへるといふなり。  「不簡貧窮将富貴」といふは、「不簡」はえらばず、きらはずといふ。「貧 窮」はまづしく、たしなきものなり。「将」はまさにといふ、もつてといふ、 率てゆくといふ。「富貴」はとめるひと、よきひとといふ。これらをまさにも つてえらばず、きらはず、浄土へ率てゆくとなり。  「不簡下智与高才」といふは、「下智」は智慧あさく、せばく、すくなきも P--706 のとなり。「高才」は才学ひろきもの、これらをえらばず、きらはずとなり。  「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきき、信ずる なり。「持」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしな はず、ちらさぬなり。「浄戒」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十 善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大 乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらを たもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびと も、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづから の、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れず となり。  「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道 俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」 といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきも の、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましき さまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよ P--707 きひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひに はきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。真実 信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべ しとなり。「総迎来」は、すべてみな浄土へむかへ率て、かへらしむといへる なり。  「但使回心多念仏」といふは、「但使回心」はひとへに回心せしめよといふ ことばなり。「回心」といふは自力の心をひるがへし、すつるをいふなり。実 報土に生るるひとはかならず金剛の信心のおこるを、「多念仏」と申すなり。 「多」は大のこころなり、勝のこころなり、増上のこころなり。大はおほきな り、勝はすぐれたり、よろづの善にまされるとなり、増上はよろづのことにす ぐれたるなり。これすなはち他力本願無上のゆゑなり。自力のこころをすつと いふは、やうやうさまざまの大小の聖人・善悪の凡夫の、みづからが身をよし とおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをかへりみず、ひとすぢ に具縛の凡愚・屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信 楽すれば、煩悩を具足しながら無上大涅槃にいたるなり。具縛はよろづの煩悩 P--708 にしばられたるわれらなり、煩は身をわづらはす、悩はこころをなやますとい ふ。屠はよろづのいきたるものをころし、ほふるものなり、これはれふしとい ふものなり。沽はよろづのものをうりかふものなり、これはあき人なり。これ らを下類といふなり。  「能令瓦礫変成金」といふは、「能」はよくといふ、「令」はせしむとい ふ、「瓦」はかはらといふ、「礫」はつぶてといふ。「変成金」は、「変成」 はかへなすといふ、「金」はこがねといふ。かはら・つぶてをこがねにかへな さしめんがごとしとたとへたまへるなり。れふし・あき人、さまざまのもの は、みな、いし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり。如来の御ちかひを ふたごころなく信楽すれば、摂取のひかりのなかにをさめとられまゐらせて、 かならず大涅槃のさとりをひらかしめたまふは、すなはちれふし、あき人など は、いし・かはら・つぶてなんどを、よくこがねとなさしめんがごとしとたと へたまへるなり。摂取のひかりと申すは、阿弥陀仏の御こころにをさめとりた まふゆゑなり。文のこころはおもふほどは申しあらはし候はねども、あらあら 申すなり。ふかきことはこれにておしはからせたまふべし。この文は、慈愍三 P--709 蔵と申す聖人の御釈なり。震旦(中国)には恵日三蔵と申すなり。 【4】 「極楽無為涅槃界 随縁雑善恐難生     故使如来選要法 教念弥陀専復専」(法事讃・下)  「極楽無為涅槃界」といふは、「極楽」と申すはかの安楽浄土なり、よろづ のたのしみつねにして、くるしみまじはらざるなり。かのくにをば安養といへ り、曇鸞和尚は、「ほめたてまつりて安養と申す」とこそのたまへり。また 『論』(浄土論)には「蓮華蔵世界」ともいへり、「無為」ともいへり。「涅槃界」 といふは無明のまどひをひるがへして、無上涅槃のさとりをひらくなり。「界」 はさかひといふ、さとりをひらくさかひなり。大涅槃と申すにその名無量な り、くはしく申すにあたはず、おろおろその名をあらはすべし。「涅槃」をば 滅度といふ、無為といふ、安楽といふ、常楽といふ、実相といふ、法身といふ、 法性といふ、真如といふ、一如といふ、仏性といふ。仏性すなはち如来なり。 この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この 心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり、仏性すなはち法性 なり、法性すなはち法身なり。法身はいろもなし、かたちもましまさず。しか P--710 れば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらは して、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可 思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽 十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願 の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひた るなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍 の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちも ましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず、この ゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明 なり、光明は智慧のかたちなりとしるべし。  「随縁雑善恐難生」といふは、「随縁」は衆生のおのおのの縁にしたがひて、 おのおののこころにまかせて、もろもろの善を修するを極楽に回向するなり。 すなはち八万四千の法門なり。これはみな自力の善根なるゆゑに、実報土には 生れずときらはるるゆゑに「恐難生」といへり。「恐」はおそるといふ、真の 報土に雑善・自力の善生るといふことをおそるるなり。「難生」は生れがたし P--711 となり。  「故使如来選要法」といふは、釈迦如来、よろづの善のなかより名号をえら びとりて、五濁悪時・悪世界・悪衆生・邪見無信のものにあたへたまへるなり としるべしとなり。これを「選」といふ、ひろくえらぶといふなり。「要」は もつぱらといふ、もとむといふ、ちぎるといふなり。「法」は名号なり。  「教念弥陀専復専」といふは、「教」はをしふといふ、のりといふ、釈尊 の教勅なり。「念」は心におもひさだめて、ともかくもはたらかぬこころな り。すなはち選択本願の名号を一向専修なれとをしへたまふ御ことなり。「専 復専」といふは、はじめの「専」は一行を修すべしとなり。「復」はまたとい ふ、かさぬといふ。しかれば、また「専」といふは一心なれとなり、一行一心 をもつぱらなれとなり。「専」は一つといふことばなり、もつぱらといふはふ たごころなかれとなり、ともかくもうつるこころなきを「専」といふなり。こ の一行一心なるひとを「摂取して捨てたまはざれば阿弥陀となづけたてまつ る」と、光明寺の和尚(善導)はのたまへり。この一心は横超の信心なり。横 はよこさまといふ、超はこえてといふ、よろづの法にすぐれて、すみやかに疾 P--712 く生死海をこえて仏果にいたるがゆゑに超と申すなり。これすなはち大悲誓願 力なるがゆゑなり。この信心は摂取のゆゑに金剛心となれり。これは『大経』 の本願の三信心なり。この真実信心を世親菩薩(天親)は、「願作仏心」との たまへり。この信楽は仏にならんとねがふと申すこころなり。この願作仏心 はすなはち度衆生心なり。この度衆生心と申すは、すなはち衆生をして生死の 大海をわたすこころなり。この信楽は衆生をして無上涅槃にいたらしむる心な り。この心すなはち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなはち仏性な り、すなはち如来なり。この信心をうるを慶喜といふなり。慶喜するひとは諸 仏とひとしきひととなづく。慶はよろこぶといふ、信心をえてのちによろこぶ なり、喜はこころのうちによろこぶこころたえずしてつねなるをいふ、うべき ことをえてのちに、身にもこころにもよろこぶこころなり。信心をえたるひと をば、「分陀利華」(観経)とのたまへり。この信心をえがたきことを、『経』 (称讃浄土経)には、「極難信法」とのたまへり。しかれば『大経』(下)には、 「若聞斯経 信楽受持 難中之難 無過此難」とをしへたまへり。この文のこ ころは、「もしこの『経』を聞きて信ずること、難きがなかに難し、これにす P--713 ぎて難きことなし」とのたまへる御のりなり。釈迦牟尼如来は、五濁悪世に出 でてこの難信の法を行じて無上涅槃にいたると説きたまふ。さて、この智慧の 名号を濁悪の衆生にあたへたまふとのたまへり。十方諸仏の証誠、恒沙如来 の護念、ひとへに真実信心のひとのためなり。釈迦は慈父、弥陀は悲母なり。 われらがちち・はは、種々の方便をして無上の信心をひらきおこしたまへるな りとしるべしとなり。おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひし みもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま 願力にまうあふことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の 善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり。 【5】 「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国 に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心即不得 生」(礼讃)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとな り。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、 うるといふは往生をうるとなり。「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、 ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れ P--714 ずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本 願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信 心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるを ば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。 『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえ んとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不 得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るるこ とをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行 雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の 一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。も し胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれ に一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえ ねがふべきなり。 【6】 「不得外現賢善精進之相」(散善義)といふは、あらはに、かしこきすが た、善人のかたちをあらはすことなかれ、精進なるすがたをしめすことなかれ P--715 となり。そのゆゑは「内懐虚仮」なればなり。「内」はうちといふ、こころの うちに煩悩を具せるゆゑに虚なり、仮なり。「虚」はむなしくして実ならぬな り、「仮」はかりにして真ならぬなり。このこころは上にあらはせり。この信 心はまことの浄土のたねとなり、みとなるべしと、いつはらず、へつらはず、 実報土のたねとなる信心なり。しかればわれらは善人にもあらず、賢人にもあ らず。賢人といふは、かしこくよきひとなり。精進なるこころもなし、懈怠の こころのみにして、うちはむなしく、いつはり、かざり、へつらふこころのみ つねにして、まことなるこころなき身なりとしるべしとなり。「斟酌すべし」 (唯信鈔)といふは、ことのありさまにしたがうて、はからふべしといふことば なり。 【7】 「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といふは、もろもろの戒をやぶり、罪ふ かきひとをきらはずとなり。このやうは、はじめにあらはせり。よくよくみる べし。 【8】 「乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といふは、選択本願(第十 八願)の文なり。この文のこころは、「乃至十念の御なをとなへんもの、もし P--716 わがくにに生れずは仏に成らじ」とちかひたまへる本願なり。「乃至」はかみ しもと、おほきすくなき、ちかきとほきひさしきをも、みなをさむることば なり。多念にとどまるこころをやめ、一念にとどまるこころをとどめんがため に、法蔵菩薩の願じまします御ちかひなり。 【9】 「非権非実」(唯信鈔)といふは、法華宗のをしへなり。浄土真宗のここ ろにあらず、聖道家のこころなり。かの宗のひとにたづぬべし。 【10】 「汝若不能念」(観経)といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、 やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口 に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願 と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」(観経)とのべたま へるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。 【11】 「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死 之罪」(観経)といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫 の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のり なり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもき P--717 ほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしと なり。しかれば選択本願(第十八願)には、「若我成仏 十方衆生 称我名号  下至十声 若不生者 不取正覚」(礼讃)と申すは、弥陀の本願は、とこゑま での衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とは ひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる 念なしとなり。  この文どものこころは、おもふほどは申さず、よからんひとにたづぬべし。 ふかきことは、これにてもおしはかりたまふべし。   南無阿弥陀仏   ゐなかのひとびとの、文字のこころもしらず、あさましき愚痴きはまりな  きゆゑに、やすくこころえさせんとて、おなじことをたびたびとりかへしと  りかへし書きつけたり。こころあらんひとはをかしくおもふべし、あざけり  をなすべし。しかれども、おほかたのそしりをかへりみず、ひとすぢに愚か  なるものをこころえやすからんとてしるせるなり。 P--718   [康元二歳正月二十七日 愚禿親鸞八十五歳これを書写す。]